LOGINルシェムに戻った翌日、レインから手紙が届いた。
王都へ出発する前に出した手紙への返事だった。 封を開けると、二枚入っていた。エリナへ
『今どういう状態ですか?』と聞いてくれた。答える。 正直に言う。落ち着いている。 それが、少し意外だった。残り四週間を切って、最後の山が来て、毎日何かが動いていて、それなのに落ち着いている。 なぜかを考えた。 一つ目の理由。やることが見えているから。骨格は仕上がった。確認書は揃った。師匠の発言の準備が進んでいる。次に何をするかが明確な時、人は落ち着く。 二つ目の理由。これは、うまく言葉にするのが難しい。 お前が聞いてくれたから、落ち着いている。 それだけかもしれない。 人の状態を聞いてくれる人間がいることで、自分の状態がわかる。そういうことがある。俺には、そういうことがあまりなかった。孤児院でも、学院でも。 だから、今、落ち着いている理由の一つが、お前が聞いてくれたことだと思う。 うまく言葉にできないが、あることは確かだ。 残り四週間を切った。落ち着いて、動く。 ――レイン――二枚目を開けた。
別に書く。
『今どういう状態ですか?』と聞いてくれたことで、もう一つ考えたことがある。 一年後の約束の話だ。 一年後の夜に、ゆっくり話がしたい。数字と結果ではなく、一年間に何を考えていたかを。お前自身のことが、入っている。 その夜に向けて、俺が話したいことが、少しずつ形になってきた。まだ全部ではない。でも、一つだけ今言える。 お前のことを、ずっと考えていた。 報告書の話でも、商会の話でも、クロヴェルの話でもなく、お前自身のことを。 手紙が来るたびに、お前が何を感じているかを考えた。『少し重い』と書いてくれた時。『目が少し熱くなった』と書いてくれた時。『今日、笑った』と書いてくれた時。それぞれを、ゆっくり読んだ。 なぜそこまで考えるのかを、整理しようとした。整理できなかった。でも、あることは確かだ。 一年後の夜に、もう少し言葉にできるかもしれない。 今は、ここまでにする。 残り、もうすぐ三週間になる。 ――レイン――エリナは二枚目を、三度読んだ。
『お前のことを、ずっと考えていた。 報告書の話でも、商会の話でも、クロヴェルの話でもなく。 お前自身のことを』 エリナは手紙を机の上に置いて、少しだけ目を閉じた。 整理しようとした。 できなかった。 最近、整理できないことが増えている。でも、今日のこれは、特に整理できなかった。 心臓が、少し早く動いていた。 前にも同じことがあった。『覚えている』という手紙が届いた時。 あの時より、今日の方が少し強かった。マリオが昼過ぎに事務室に来た。
「なあ、エリナ」 「何?」 「また顔が違う」 「またですか?」 「うん。今日は特に。赤い、とまでは言わないけど、なんか、いつもと違う」 「気のせいです」 「気のせいじゃない。ゴードンさんも、今日は声をかけにくいって言ってた」 「ゴードンさんが、そういうことを言うんですか」 「珍しいだろ。俺もびっくりした」 エリナは少しだけ、諦めて答えた。 「レインから手紙が来た」 「ふうん」マリオが壁にもたれた。
「で?」
「で、というのは」 「内容は何だった?」 「今どういう状態かを聞いたら、答えてくれた。それと——」 「それと?」 エリナは少し止まった。 「もう一枚、別に書いてあった」 「何が書いてあったんだ」 「…………私のことを、ずっと考えていたと書いてあった」 マリオが少し動かなくなった。 それから、ゆっくりと息を吐いた。 「そうか」 「うん」 「それは、顔が違うよな」 「マリオ」 「何?」 「どういう顔をしていますか、今の私は」 マリオが少しだけエリナを見た。 「なんか、困ってる顔」 「困っている?」 「うん。でも、悪い困り方じゃない。なんて言うんだろう……嬉しいけど、どうすればいいかわからない、みたいな顔」 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。 嬉しいけど、どうすればいいかわからない。 それは、正確だった。 「マリオ」 「うん」 「こういう時、どうすればいいですか?」 マリオが少しだけ驚いた顔をした。 「お前が俺に聞くのか?」 「聞いています」 「そうか……俺に聞くか」 「あなたは、こういうことに慣れていると思うので」 「慣れてるかどうかわからないけど、一つだけ言えることがある」 「何ですか?」 「どうすればいいかわからない時は、何もしなくていいと思う。少なくとも、今は」 「何もしない?」 「急いで答えを出そうとしなくていい。今は、残り三週間で最後の山を越えることが一番大事だろ。それが終わってから、考えればいい」 「一年後の約束がある」 「あるな」 「その夜に、話せると思う」 「なら、それまで待てばいい。お前にとって、待つのは難しいかもしれないけど」 「難しいです」 「でも、できるだろ」 「……できます」 「それで十分だ」夕方、ルナが棚の整理をしながら、エリナに声をかけた。
「手紙、来た?」 「来た」 「レインから?」 「そう」 「よかった」 「なぜよかったの?」 「エリナが、朝から少し違う顔をしてたから」ルナが棚から目を離さずに言った。
「悪い顔じゃない。でも、いつもと違う。手紙が来たなら、理由がわかった」
「みんなに顔を読まれています」 「みんなが見てるから」 「そうですね」 ルナが少しだけエリナを見た。 「嬉しいことがあった?」 「そうかもしれません」 「ならいい」ルナが棚に向き直した。
「嬉しいことがある時の顔は、見ていていい顔だから」
夜、エリナは机に向かった。
返事を書こうとして、何を書けばいいかを少しだけ考えた。 『お前のことを、ずっと考えていた』に対して、何を返すか。 整理しようとして、できなかった。 でも、マリオが言った。 どうすればいいかわからない時は、何もしなくていい。 急いで答えを出そうとしなくていい。 今は、残り三週間で最後の山を越えることが一番大事だ。 エリナは、それを受け取った。 答えを急がない。 でも、何も届けないのも違う気がした。 届けたいことがある。 答えではなく、受け取ったということを、届けたい。レインへ
二枚、届いた。両方、読んだ。 『落ち着いている。お前が聞いてくれたから』という言葉を受け取った。私が聞いたことで、あなたの状態がわかった。それを知れて、よかった。 二枚目も、読んだ。 『私のことを、ずっと考えていた』という言葉を、受け取った。どう答えればいいか、今日一日考えたが、うまく言葉にできなかった。整理しようとしたが、できなかった。 でも、受け取った。それだけは届けたかった。 一つだけ、今言える。 あなたが考えてくれていたことを、私は知っていてほしかったと思う。それが、今日わかった。 一年後の夜まで、もう少し待つ。待てる。 残り三週間を切った。最後の山を、一緒に越える。 ――エリナ―― 書いて、封をした。 『受け取った』という言葉を、何度も書いた。 それしか、今日は書けなかった。 でも、受け取ったことを届けることが、今夜の自分にできることだと思った。ランプを消す前に、エリナは引き出しを開けた。
今まで届いたレインからの手紙が、全部入っている。 最初の手紙。『また来る』と書いた短い手紙。消毒液を五個もらえるかと書いた手紙。『一年前の自分が見たら驚くか』という問いを教えてくれた手紙。『重い時は重いと言っていい』と書いた手紙。『楽しみにしていた』と書いた手紙。『覚えている』という一枚の手紙。『お前のことを、ずっと考えていた』という今日の手紙。 全部、ある。 一枚も捨てていなかった。 そのことに、今日初めて気づいた。 いつから捨てなくなったのか、わからない。 でも、全部ある。 引き出しを閉めた。 ランプを吹き消した。 暗い部屋で、少しだけ目を開けていた。 お前のことを、ずっと考えていた。 その言葉が、暗い部屋の中で、静かに響いていた。 整理できなかった。 でも、あることは確かだ。 一年後の夜が、近づいている。 エリナ・アッシュフォード、八歳。 今日、手紙を一枚も捨てていなかったことに、気づいた。 それが今夜、一番大事なことだった。フィオナがルシェムに来たのは、謁見から二週間後のことだった。 予告なしだった。 朝、市場から戻ったマリオが、息を切らして事務室に飛び込んできた。 「フィオナさんが来た」「どこに?」「市場の入り口。馬車で来てる。荷物が多い」「荷物が多い?」「トランクが二つある」 エリナは少しだけ止まった。 「泊まりではなく、しばらくいるつもりですか」「そういうことじゃないか? 迎えに行くか?」「行きます」 市場の入り口に着くと、フィオナが馬車の横に立っていた。 久しぶりに、ルシェムで見るフィオナだった。 王都で会った時とは少し違って見えた。服装は変わらないが、顔が少し違う。 疲れている、と手紙に書いていた。 確かに、少し疲れた顔をしていた。 でも、エリナを見た瞬間、目が変わった。 「来た」「来ましたね、予告なしで」「予告したら、準備されすぎると思って。あなたのことだから、部屋を完璧に整えて、食事まで用意して待っていそうだから」「そうしようとしていました」「でしょう。だから、言わなかった」「荷物が多いですね」「しばらくいようと思って」 フィオナが少しだけ声を落とした。「王都からの仕事は、手紙でできる部分も多い。しばらくルシェムで動きながら、こちらの空気も吸いたかった」「どのくらい?」「一週間か、二週間か。決めていない」「決めなくていいです。いたいだけいてください」 マリオが荷物を運んでくれた。 フィオナが見ると、少し驚いた顔をした。 「マリオ、大きくなった?」「なってないと思うけど、フィオナさんが久しぶりに会うから大きく見えるだけじゃないか?」「そうかもしれない。でも、なんか違う。顔が違う」「どう違う?」「前より、落ち着いた顔をしてる」「そうかな」
翌日から、エリナは動き始めた。 といっても、急いでいるわけではなかった。 落ち着いて、一つずつ。 謁見の翌日以降に何をするかは、帰り道の馬車の中でゴードンと話し合っていた。 優先順位は決まっていた。 一つ目、商会の代表変更の正式書類を処理する。二つ目、各町の現場責任者に謁見の結果を報告する。三つ目、フィオナと連携して規制案の継続審議への対応を続ける。四つ目、学院の衛生教育の検討に、商会として協力できることを提示する。 どれも、急ぎではない。 でも、止まってもいない。 まず、商会の代表変更の書類が届いた。 アルバ殿下が約束した通り、一週間以内に書状が来た。 正式な書類に、エリナ・アッシュフォードの名前が入っていた。 アッシュフォード商会の代表者、エリナ・アッシュフォード。 ゴードンがその書類を机の上に置いた。 「これで、正式になりました」「そうですね」「どういう気持ちですか?」 エリナは少しだけ考えた。 「思っていたより、静かな気持ちです」「静か、とは」「もっと大きな感情が来ると思っていた。でも、静かだった。当たり前のことが、形になった、という感じです」「それが、正しい感覚だと思います」ゴードンが静かに言った。「当たり前のことを積み上げてきたから、当たり前に形になった」「ゴードンさん」「はい」「代表名義をずっと引き受けてくれていた。本当にありがとうございました」「礼はいりません。でも、受け取ります」 それだけだった。 それで十分だった。 次に、各町の現場責任者への報告をした。 マグダ、シェナ、ジルカに、それぞれ手紙を書いた。 謁見の結果。陛下が約束を守ってくれたこと。商会の活動が引き続き認められたこと。今後も続けることができること。 返事は、それぞれ三日以内に来た。 マグダから。 エリナちゃん
ルシェムに帰った翌朝、エリナはいつもより少しだけ遅く起きた。 目が覚めた時、空はすでに明るかった。 珍しいことだった。 いつもは夜明け前に目が覚める。でも今朝は、光が差し込んでから目が開いた。 しばらく、布団の中でそのままいた。 これも珍しいことだった。 起きたら、すぐに動く。それがいつものエリナだった。 でも今朝は、少しだけそのままいた。 窓の外から、ルシェムの朝の音が聞こえた。 市場へ向かう人の足音。遠くで犬が吠える声。風が木の葉を揺らす音。 帰ってきた、と思った。 昨日も思った。でも、今朝も思った。 ここが、自分の場所だ。 台所に行くと、セレーナが先にいた。 「おはよう」「おはようございます」「よく眠れた?」「はい。遅くまで眠っていました」「そう。今日くらいは、いいんじゃない?」「そうかもしれません」 薬草茶を作りながら、エリナは窓の外を見た。 冬の朝の空は、澄んでいた。 「お母さん」「うん」「昨日、ゴードンさんから聞いた話があります」「何?」「学院が、来年から衛生教育を取り入れることを検討しているそうです。石鹸の使い方、薬草薬の知識、傷の手当ての手順を、学院の教育に組み込む話が始まっている」 セレーナが少しだけ手を止めた。 「それって、どういうことになるの」「学院で教えれば、学院の生徒が卒業して各地に行く時に、その知識を持っていく。一人が届けられる場所より、ずっと広い範囲に届く」「あなたが一年でやったことが、もっと広がるということ?」「そうなるかもしれません」「お父さんが聞いたら、何と言うかしら」 エリナは少しだけ考えた。 「『私よりうまくやっている』と言うか、それとも『まだ足りない』と言うか」「この前も同じことを言ったわね」「同じこ
翌朝、エリナは早く起きた。 今日、ルシェムに帰る。 荷物を確認した。報告書の写し。確認書の写し。殿下から預かったアッシュフォード商会の正式な代表変更に関する書状の下書き。そして、セレーナへの手紙。 全部、ある。 朝食を三人で食べた。 フィオナが、珍しく朝から饒舌だった。 「昨夜の話、全部聞かせてもらうって言ったけど」「聞きますか?」「聞く。でも、今は聞かない」「なぜですか?」「あなたの顔を見れば、大体わかるから。今日は、その顔で十分」「どんな顔をしていますか?」 ゴードンが静かに言った。 「昨日フィオナが見たかった顔」 出発前に、フィオナと二人になった。 宿の前の小さな通りで、少しだけ話した。 「フィオナ、これからどうするんですか?」「王都にいる。まだやることがある。規制案はまだ継続審議のままだ。陛下が認めたとはいえ、クロヴェルが諦めたわけじゃない」「そうですね」「でも、今日は違う話をしたい」「どんな話ですか?」「あなたが帰った後のことを、少し考えた。王都に来てからの一年間、私はずっとここで動いていた。でも、いつかルシェムに行ってみたいと思っている」「ルシェムに?」「マリオとルナに、会いたい。あなたが話してくれた人たちに。あなたが動いてきた場所を、見てみたい」「来てください、必ず」「いつ行けるかはわからない。でも、行く」「待っています」 フィオナが少しだけ笑った。 「その言葉、昨夜もレインに言ったでしょう」「言いました」「同じ言葉が、自然に出てくるようになったんだね」フィオナが穏やかに言った。「前のあなたには、なかった言葉だと思う」「そうかもしれません」「いい変化だと思う」 フィオナが手を差し出した。 エリナはその手を両手で握った。
謁見が終わって、王宮を出たのは昼過ぎだった。 アルバ殿下が廊下で待っていた。 「よくやりました、エリナ殿」「ありがとうございます。殿下の準備がなければ、今日はなかった」「王都のデータは、効きましたね」 殿下が少し笑った。「右側の列が、ざわついた」「見えていました」「父上は、満足そうでした。あの顔は、久しぶりに見た。一年前に、『わくわくしている』と言いましたが、今日はそれ以上でしたよ」 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。 「殿下、商会の代表についてお願いがあります」「ゴードンさんから聞きました。昨夜、連絡をいただいた」「はい。正式にエリナ・アッシュフォードの名で商会を持てるよう、陛下にご確認いただけますか?」「すでに父上に話しました。年齢の問題は、特例として認めていただける方向です。正式な書類は、来週中に届きます」「ありがとうございます」「アッシュフォード商会の代表が、アッシュフォードの名前になる。当然のことですから」 王宮の外で、師匠とレインが待っていた。 師匠がエリナに言った。 「一つだけ言っておく」「はい」「今日の発言で、一番良かった部分を教えてもいいか?」「ぜひ」「クロヴェルへの返答だ」 師匠が静かに言った。「感情で返さなかった。でも、感情がないふりもしなかった」 エリナはフィオナが昨日言っていた言葉を思い出した。 「感情がないふりもしなくていい、という言葉を、昨日フィオナからもらいました」「賢い子だ、フィオナ殿は。あの返答には、あなたがいた。数字だけではなかった」「届きましたか?」「届いた。俺には届いた。他の人間にも届いたと思う」 師匠が一歩退いた。 「俺はこれで失礼する。よくやった」「先生、ありがとうございました。一年間、本当に」「礼
謁見の日の朝、エリナは四時間ほど眠った。 眠れると思っていなかったが、眠れた。 目が覚めた時、空はまだ暗かった。でも、もう眠れなかった。 起きて、顔を洗って、薬草茶を作った。 ルナが持たせてくれた葉を使った。 温かい湯呑みを両手で持って、部屋の窓から外を見た。 王都の夜明け前。 ルシェムとは違う空の色だった。でも、夜明け前が静かなのは、どこでも同じだった。 今日、謁見の間に立つ。 もう一度、確認した。 怖い。でも、届けたい。 それだけでいい。 朝食を三人で食べた。 フィオナが、珍しく静かだった。 いつもは何か言う人だが、今朝は食べながらあまり口を開かなかった。 エリナが「どうかしましたか?」と聞くと、フィオナが少し笑った。 「緊張してる」「フィオナが?」「私も人間だから。あなたが緊張するより、私が緊張してる気がする」「なぜですか?」「あなたが上手くいくかどうかを、見ている立場だから。自分が話すより、大事な人が話すのを見ている方が、緊張する」 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。 大事な人が話すのを見ている方が、緊張する。 「フィオナ」「何?」「今日、謁見の間に入れますか?」「入れない。謁見の場に入れるのは、名前がある人間だけ。私には、今は資格がない」「そうでしたか」「廊下で待ってる。終わったら、すぐ出てくるでしょう。その顔を見る」「どんな顔をしていると思いますか?」「わからない。でも、見たい顔をしていると思う」 謁見の前の十分間は、王宮の廊下の一角で過ごした。 フィオナ、ゴードン、エリナの三人。 廊下は石造りで、冷たかった。外の空気が、石を通して伝わってくる。 エリナは上着の内ポケットに手を当てた。 手紙が、ある。 フィオナが言った。 「今日の目標を、一つだけ確







